神様なんて信じちゃいない。
実際、空の上で会った神様と名乗る男は信じるに値しない奴だった。
祈ったところでその悲痛の祈りを叶えてくれる存在などあってはいけないものなのだ。他人の力で叶えた望みや
祈りなんて、たとえそれが望んだ未来の形だとしても人の手が加えられたところでもう何の価値もなくなってしまう。

だけど時々、無意味だと知っていても祈りたくなるときがある。

オー、ジーザス。

今、この危機的状況を回避するすべを教えてください。
助けてくれとは言わないから、どうか少しだけでも救いの手を。

グッと無遠慮に押し入ってくる存在にサンジは小さな悲鳴を上げる。

ああ、神様。
あんたは俺が嫌いですか。
信じたことなんてないくせに祈った俺への報いでしょうか。

涙で揺れた視界の端に捉えたのは、共に己の夢を追う仲間の姿。
苦しそうに額に汗を浮かべて我が物顔でサンジの中を蹂躙している。

苦しさで逃げうつサンジの腰を掴み、引き寄せて、ガンガンと腰を深く抉るように打ちつけられる。

あぁ、神様。
俺はきっとあんたを一生信じない。
祈っても、願っても、乞いても。
あんたが俺を救うことなんてないんだから。

救いを求めて伸ばした手は熱く筋張ったゴツい手に包まれ、そのまま床に縫いつけられてしまった。

なんでこんなことになったのか。
翻弄される意識の端でそう思う。けれど思考はすぐに体中に与えられた熱に奪われ何もかもわからなくなった。












Red aphrodisiac nuts







久しぶりにメリー号が辿り着いたのは真っ白に染まった冬島だった。街も人も見当たらない小さな島に興味なんて
なかったが、暇を持て余していた船長が降りると駄々を捏ねたため、乗組員一同は渋々小さな島に上陸した。
人のいない不可侵領域。
積もった雪は誰に潰されることもなく積もり続けていたようで、普通の人間ならちょっとやそっとの勇気では踏み
出せないほど積もり積もっていた。
寒いと部屋に戻る航海士。渋っていたのにはしゃぎだす狙撃手と雪を見て瞳を輝かせる船医を連れて獣道を開拓する船長。
読書好きの考古学者の姿はこの島に近づいてから一度も見ていない。
そして、島に着いたことも気が付かず眠り続ける剣士。
空から静かに降り始めた白い粒が、眠り続ける男の緑色の髪に乗っては消えてゆく。

(…植物に雪は不要か…)

乗組員の人数に対して倍以上の食事の準備をしていたコックは、下ごしらえを終えて篭もっていた己の城から外へ出て、
各々に動き回るクルーを、目を細めて眺めていた。
吐く息は白く、サンジの場合、それがマイナスの世界が齎す現象なのかタバコの煙なのか判別が付きづらい。
まして、スーツを着込んだだけの服装では肌を刺すような冷気を感じるのだが、目の前でぐっすりと眠る半そで腹巻の男を
見ると、寒さを感じている自分が間違っている気さえしてくる。

(…鈍さもここまでくれば表彰もんだな…)

紫煙を燻らせながら、サンジはマストに寄りかかって大口を開ける男の傍まで近寄った。
緑頭の剣士ゾロは、大剣豪になるという偉大な夢をもつにもかかわらず、サンジの気配に目を覚ます様子はない。
ゴーゴーと呑気に寝息を立てている。

「…寝首を掻かれるぞ、マリモヤロー」
「そんなヘマはしねーよ」

ボソリと何気なく呟いたサンジの声に、足元で惰眠を貪っていたはずのゾロが答える。

「何だ、起きてやがったのか」
「気配がしたからな」

そう答えたゾロにサンジが眉を顰める。

「嘘つくなよ、クソヤロー。テメー近づいても阿保面で寝ていたじゃねーか」
「ああ。テメーには殺気がねーからな」

気にすることはねーだろうと呟き、ゾロは大きな欠伸を掻いた。

「…テメーを殺したところで、夕飯の足しにもならねーからな」

投げ捨てるようにそう言うと、サンジはゾロから目を背け、停泊するメリー号の外に目を遣った。
全身を覆う白銀の世界に身を投じた三人のクルーは、開拓した雪道をずっと遠方まで進んでいる。
進むごとに前進を雪に埋もれさせている彼らの手と顔はすでに真っ赤に染まっていた。
サンジは鼻の頭まで真っ赤に染めているクルーたちを見て、何か温かいものでも用意しておこうと考え、クルリと踵を返し、
再び惰眠を貪り始めたゾロに目を向けた。
緑色の髪には雪の雫がキラキラと光っている。人の体温で解かせる量を上回った雪の結晶が、見上げる空から幾千の
白い粒を静かに散らせ、ゾロの頭に積もり始めていた。

(…どういう感覚してやがるんだ、このクソヤローは…)

白く覆われ始めたゾロを見て、サンジは眉を顰めた。
世界最強を目指すこの剣士は、どうも常人とは違う感覚の持ち主らしい。寒い、暑い、痛い、苦しいと言った常人なら普通に
感じるものに対し、ゾロはまったく動じない。野望のために命すら捨てる『覚悟』というやつがこの男をそうさせているらしいのだが…。

(ただのマゾだろう…。変態マリモだ)

寒いなら寒い。暑いなら暑い。痛いなら痛い。苦しいなら苦しいと言えばいい。必要以上に自分の体を痛めつけて何になるのか。

(…俺様には植物界のことは理解できねぇ)

半そでで眠り続けるゾロに向かって溜息を吐き、サンジは上着をゾロの頭の上に投げ捨てキッチンに向かった。
その背にゾロが声をかける。

「おい、何のつもりだ」
「別に。そんな格好で寝られちゃ目障りだからよ」

サンジは階段を上がり振り返らずのそう答えると、紫煙を空に向かって吐き出して、温かいラウンジの中へ消えた。





沸かしていたお湯が沸騰した頃、外がガヤガヤと騒がしくなった。聞こえてくる数人の声に、サンジは食器棚から人数分の
マグカップを用意し、お茶の準備をする。
ドタドタと階段を上がる音が大きくなり、勢いよくラウンジの扉が開け放たれた。

「サンジ!めし!」

乱暴に開けられた扉と同じ勢いで、真っ赤な顔に満面の笑みを浮かべたこの船の船長であるルフィが息を切らせながら
駆け込んできた。同じく顔を赤く染めた船医と狙撃手も雪崩れ込むように駆け込んだ。

「まだ飯時じゃねーよ。今、おやつ用意すっからそれ食って待ってろ」
「今日のおやつは何だ?」

キラキラと目を輝かせて船医チョッパーがサンジを見上げる。

「揚げ物か?」

サンジの手元を覗き込んでウソップが言う。

「いや、炒めもんだ。ポンポネット・オ・ザブリコていうイモのお菓子だな」

返答だけをして、サンジは手際よく机に用意したおやつとお茶を並べる。
サンジの手中にある半月形のお菓子に、三人は揃って感嘆を漏らした。

「おい、ウソップ。食う前にナミさんとロビンちゃん呼んで来い。ついでにクソ剣士も」

誰よりも早くお菓子に手を伸ばすルフィの両手を拘束して、サンジがウソップを振り返る。

「早くしねーとなくなっちまうぞ」
「おお、わかった!」

任務を言い渡されたウソップは大急ぎで駆けてゆく。

「腹減ったぁ。なぁ、おやつ食わしてくれよ」

両手を拘束されたルフィが不貞腐れたように懇願する。

「駄目だ。テメェはみんなの分まで食っちまうからな。全員揃ってからだ」
「サンジのケチ。折角良いもん持ってきたのによー」
「あ?何持って来たって?」

ルフィの良いものは大概碌な物じゃない。何て言ったって本人自体がトラブルメーカーだ。また無駄に厄介ごとを拾って
きたのではないかと、半ば呆れ気味に問う。

「赤い実だ」
「赤い実?」
「スゲー旨そうに生ってたんだ。なぁチョッパー」

席に座っておとなしくお菓子を見つめていたチョッパーがコクリと頷く。

「白い雪の中に真っ赤に実ってたんだ。綺麗だったぞ」
「で、その実はどこにあるんだ?」

サンジの問いに、ルフィはおやつが先じゃないと教えないと頬を膨らませて暴れだした。

「あ」

ジタバタと暴れるルフィを必死で押さえ込むサンジの足元に、幾つもの赤い実が転がっているのを見つけチョッパーが声を上げる。
どうやら、暴れだしたルフィのポケットから隠していた実が零れ落ちたようだ。
サンジはルフィの両手を伸ばして縛り、転がり落ちた実を拾った。
雪の中に実る胡桃のような真っ赤な殻。

「…残念だな、ルフィ。これは食えねーぞ」

拾った実をマジマジと見つめ、サンジは鷹揚なく言う。

「何でだよ!旨そうだろ!」
「旨そうでも食えねぇんだよ。食っちゃマズイ実なんだ」

不服そうに実を見つめるルフィに苦笑して、サンジは縛っていた手を開放してやった。

「そんな顔すんな。クソウメーもんくわしてやっからよ」

笑顔を取り戻すルフィに残りの実を全部出すように促し、サンジは床に転がった実をすべて拾い集めた。
思った通り、ルフィの良いことは厄介ごとだったのだが、どうやら事が大袈裟になる前に食い止めることが出来たみたいだ。

(…子供にはまだはえーよ)

拾い集めた赤い実を袋に詰めながら、サンジはホッと安堵した。
バラティエにいた頃、赤い実の噂を聞いたことがあった。一口でも口にすれば必ずカラダにある異変を起こすといわれるその実は、
グランドラインの雪が降り積もる白銀の世界に咲くと言われていると。まさかこんな形で噂の実にお目にかかれるとは思ってもいなかった。

(ま、誰も食わなかったのは救いだな)

しかし、このまま船に置いておけば必ず誰かが口にしてしまう。ルフィが夜中に忍び込んで食わないとも言い切れない。
サンジは実を島に捨てにいこうと思い、袋を持ったまま扉に向かって歩き出し時、目指す扉が勢いよく開かれた。

「あ!ルフィ、テメーもう食ってやがるのかよ」

パタパタと走り、ウソップが慌てて席につく。その後ろを二人の女性が談笑しながら現れた。

「ナミさん!ロビンちゃん!」
「あたしたちの分、残ってる?」

オレンジの髪を風に靡かせたナミが、戦場と化したテーブルを呆れた表情で見つめている。

「もちろんだよ。別にしてあるから。さ、今温かい紅茶でも淹れるから待っていてね」

浮き浮きと身を弾ませながらサンジは女性陣の椅子を引き、二人に座るように促した。淹れなおした紅茶とおやつを取りに行くついでに、
シンクの横に赤い実の入った袋を置いてナミたちの元に戻る。

「お待たせしましたぁ」

浮き足立ったまま、サンジがレディ用の盛り付けをした皿を二人の前に置く。

「ありがとう、コックさん。今日のお菓子は温かいのね」

ポンポネット・オ・ザブリコを一口食べたロビンが、珍しそうに皿を見つめ言う。

「今日は寒いからね。二人に温まってもらおうと思って」
「とってもおいしいわ」
「さすがサンジ君」

女性二人に褒められて、サンジはデレデレと鼻の下をだらしなく伸ばす。

「…俺たちにお茶は?」

明らかな男女差別を見ていたウソップが冷めた目でサンジに問う。

「ウルセー!ヤローの茶はそこにあんだろ?自分で淹れろ」
「そういう奴だよね、お前って」
「あぁ!?何か文句あんのか長っ鼻って…マリモはどうした?」

ナミとロビンと一緒に呼びに行ったはずの緑頭が見当たらず、サンジはキョロキョロと四方を見渡す。

「起こしたけどよ、また寝てるかもな」

何か寝ぼけてたからとバトルを繰り広げる食卓から目を逸らすことなくウソップが言う。
その言葉を聞いてサンジは小さく舌打ちをした。
あの男はいつもそうだ。
世界最強の剣士になること以外に興味なんてない。最強になるために尋常じゃないほどの鍛錬を繰り返すくせに、サンジが前の
晩から下ごしらえして作る食事には興味すら示さない。
三日くらい食事を抜いたってかまわないと思っているのだ。

(…クソムカつくぜ…)

サンジがこの船に乗った以上、誰かが飯を抜くという行為は許されないこと。
けれどゾロは四六時中、暇があれば寝ている。三食+おやつを毎日ほぼ同じ時間帯にだしているこの船のリズムに、ゾロはまったく
馴染んでいないのだ。
生活の時間が他と違うゾロが食事の時間に起きることはなく。
一人だけ揃わないという今のような事態が起きる。

(……気に食わねぇぜ…)

食に興味を示さないことが気に食わないのか、食事に間に合わせる努力をしないことが気に食わないのか、それともサンジの作る
料理に無感情なのが気に食わないか。
どれが気に食わない理由なのかサンジには判別がつかないが、兎に角あの剣士はあらゆる面で気に食わない。
メリー号に乗った最初こそ寝続けるゾロを蹴り起こして全員で食事をさせていたが、それが毎回となるといい加減ウンザリしてしまう。
食事の時間に揃わない奴に食う権利などねぇと思うも、腹が減ったと言われてしまえば食事を出さずにはいられない性分で。
結局、大食管の船長よりもよっぽど手の掛かる存在だった。
サンジはもう一度小さく舌打ちをすると、ナミたちから離れタバコを銜える。
火をつけようとポケットを弄った視線の先に、赤い実を詰めた袋を捕らえてサンジは動きを止めた。

(…忘れてたなぁ……。捨てに行くついでに寝マリモでも起こしてやるか)

何だかんだと結局世話を焼いてしまう自分に呆れつつ、サンジはシンクに置いた袋を掴み外に出た。
停泊したメリー号には白い絨毯が敷き詰められている。
陽が射しているのに、不思議なことに空からは小さな雪がハラハラと降り続けていた。

「っ…寒ぃー……」

サンジは初めて見る幻想的な情景に一瞬目を奪われるが、それよりも肌を刺すような寒さに意識を奪われブルっと体を振るわせる。
震える体を両手で抱き込めば、サンジは自分がシャツ一枚だということに気が付いた。

(…こりゃ寒いわ)

気温の低さと薄着の自分のちぐはぐな格好に再度身震いをする。
感覚とはげんきんなもので、一度薄着だと視覚で認めてしまえば寒さがドッと波のように押し寄せてきて、サンジは自分を抱きかかえ
ながら小さな身震いを繰り返していた。

「おいアホコック」

突然聞こえた低い、けれどよく通る声と同時に、ブルブルと震えるサンジの視界を黒色の何かが遮る。

「何のつもりだ…クソヤロー」

頭に視界を遮る何かを乗せたままサンジが声の主に呟く。

「あ?テメーのだろ、それ」

そう言われて頭上に乗ったものを手に取ると、それはゾロに貸したはずのサンジのジャケットだった。

「おお!俺のじゃねーか」

寒さに震える体から両手を離して、サンジはいそいそとジャケットを着込んだ。
たった一枚でもあるとないのではだいぶ違う。
身を凍らすような寒さから一時開放されたサンジは、ジャケットを投げて寄こした男に視線を向けてギョッと目を剥いた。
ゾロは半そで腹巻のいつもの格好で、髪に雪が溶けたのであろう水滴を滴らせ、サンジが凍えるほど震える世界に立っている。
いくら陽が射しているからといってその格好はおかしいだろうと、サンジは眉を顰めた。

「クソ腹巻。テメーそんな格好でよく平気だな。神経やられてんじゃないのか?」
「テメーらとは鍛え方が違うんだよ」

それが当然というようにゾロは気だるそうにサンジの問いに答える。

「俺は…テメーを見てるだけでクソさみぃぜ」

目障りだからとっとと中に入りやがれと悪態を吐いて、サンジは忘れていた袋を捨てる作業に取り掛かろうと、ゾロの脇をすり抜けた。


――――その時。


ゾロが徐に何かを口元に運んでいるのに目を留めた。
それはとても見覚えがあるもので……。
サンジは慌ててラウンジに入ろうと扉に手を掛けたゾロの肩を掴み呼び止める。

「おい!クソ剣士!テメー今何食った!?」

モゴモゴと口を僅かに動かしながらゾロがゆっくりと振り返る。

「わりぃ、起きたら腹減ってたからよ」

渡していないはずの食料を口にしていることに文句を付けられたのだと思ったゾロが、物凄い剣幕で迫るサンジにスマンと詫びる。
謝ったことに一人満足した男が再びラウンジに入ろうとするのを、サンジは掴んだ肩に力を込めてもう一度呼び止めた。

「んなこたぁーどうでもいい!テメー今何食ったんだ!」

目を見開いて迫るサンジの形相に驚きつつ、ゾロは他人事のようにフーと溜息を吐くと、肩を掴む手を払ってサンジに向き直った。

「悪かった。でもまだテメーの手元に届いてなかったからいいかと思ってよ」
「だ・か・ら!そんなこたぁーどうでもいいんだよ!」

向かい合ったゾロの襟首を両手で掴み、サンジはゾロを責める。
観念したようにゾロが再び溜息を吐き、ボソリと呟いた。

「ルフィの奴が落としていった、赤い実だ」

そうだろうとは思っていた。
それ以外は考えられないと分かっていた。
口に運ぶ瞬間にこの目で確認したのだから分かっていたことだ。
けれど―――――。

一番聞きたくなかった答えを聞いて、サンジはゾロを捕らえたまま絶句した。

「く、食ったのか?」
「ああ」
「ホントに食ったのか、テメー!?」
「ああ、悪かった」

緊迫したサンジとは裏腹にゾロは冷静に頷く。
高が実を食ったぐらいで何慌ててやがるくらいに思っているのだろう。

「ホントにホントにホントに食ったのかっ!?」

泡を食ったように慌てるサンジの手をゾロは面倒臭そうに払いのける。

「しつけーぞ、グルマユ。何度も謝ってるだろう」

人に謝っているとはおよそ思えぬ傲慢な態度でゾロが言う。
いつもならこの横柄な態度にキレたサンジが対抗する台詞を吐いて喧嘩となるのだが、今のサンジには言い返す余裕がなかった。
払われた手をもう一度ゾロの襟首に持っていき、もう一方の手に持っていた赤い実の入った袋をゾロの前に翳した。
蒼海のような青い瞳を驚きで揺らして、サンジはゾロに詰め寄った。

「お前…この実が何か知ってて食ったのか?」

サンジに異様な態度にゾロが一歩退く。

「しらねーよ。そんなにあるならいいじゃねーか、一つや二つ」

悪びれた様子もないゾロの態度に、サンジの瞳がカッと大きく見開かれた。

「ふざけんなっ!」

分かっている。
いくらアホ剣士だからってふざけているわけではないことを。
ただ腹が減っていたから落ちていた木の実を食っただけの話だと目の前の男は思っているのだ。
その木の実が何かも知らずに、呑気に食っただけ。
分かっているのだ。
だけど―――――。
何も知らなかったといって許されるものじゃない。
無知すぎる男を怒るなと言う方が、この場合土台無理な話なのだ。
サンジはワナワナと震える手でゾロを掴む手に力を込める。

「よく聞け、アホマリモ。テメーの食ったその実はなぁ……」

サンジは一旦言葉を区切り、カサカサに乾いた唇を潤すようにペロリと舐めた。
重大発表を待つゾロの咽喉がゴクリと鳴る。

「テメーの食った実は、一種の媚薬なんだよ!それも特大に効果のデカイなっ!」
「は?」

まくし立てるように言葉を繋げたサンジに、ゾロはその言葉の意味をよく理解できないまま眉を寄せる。

「何言ってやがる――」
「この実はな、人間の情欲の本能だけを強く呼び起こす実なんだ。どんな奴でもその実を一口でも口にしたら、逆らえない。
そういう実なんだよ!」

ぐっとサンジに引き寄せられたゾロは、一旦頭を整理しようとしているのか考えるように視線を上に向けた。

「てことは何だ。俺はどうなるんだ?」

とぼけたように呟くゾロに苛立ち、サンジは思わず蹴りを放っていた。
腹に直撃したゾロが体を折り曲げ、その場に跪く。
憎憎しげにサンジを見上げる瞳には怒気が篭もっている。

「…何しやがるっ!」

サンジはポケットからタバコを取り出し、火を点ける。
怒鳴るゾロの目線にしゃがみ込み、サンジは子供に説教するような口調で話し始めた。

「いいかクソヤロー、よく聞け。テメーでも分かるように言ってやるから、その空っぽの頭をフル回転させて考えろよ。この緊急事態を」

サンジの口調にゾロの怒りのボルテージが上昇するが、サンジは構わず話を続ける。

「テメーは今夜、やりたくて、やりたくて仕方がなくなるんだ。動物の本能でそれしか考えられなくなる」
「…何をやりたくなるんだ」

ゾロの問いに目を細めて怪訝な顔をすると、サンジは紫煙をわざとゾロに向かって吐き出した。

「セックス」

ゴホゴホと咽るゾロにサンジが小さく呟くと、紫煙で涙目になったゾロの動きがぴたりと止まった。

「何だって?」
「さっき言っただろう。情欲の本能だけを呼び起こす実だってよ」

驚くゾロから視線を外して、サンジはヨッと親父くさい掛け声を掛けながら立ち上がった。

「別にテメーが何食おうと俺の知ったこたぁない。勝手に獣にでも何でもなればいい。それはテメーの責任だ。テメーがどうにか
すればいい。ただな…」

サンジは遠くを見つめて目を細める。
サンジが乗った船で食べ物に関して死人が出るのは許されないことだが、勝手に拾い食いして死ぬ奴の面倒までは見切れない。
この場合もゾロが勝手に食ったのだから、食った本人がどうにかすればいいと思っている。
思っているが……。

(ここじゃ不味いだろう……)

上陸した島に遊郭なるものがあるのなら勝手に行って盛ってもらえばいい。
だけどこの島は無人島なのだ。
そうなると奴の性欲の対象となるのはこの船に乗るレディたちで。

(不味いだろう、どう考えても)

こんな筋肉ヤローにか弱いレディが勝てるはずもない。
サンジは床に座ったまま何かを考えているゾロに視線を向ける。
世界最強以外興味のない男の欲望はどんなものなんだろう、ふと思う。
同い年にもかかわらずサンジとゾロはそういう関係の話をしたことは一度もない。
ゾロに至っては、好いた女の話や好みの女の話さえ聞いたことがなかった。

(まさか、チェリーってことはねぇだろう…)

淡白そうに見えるこの手の男に限って、しつこかったりするものだ。抱かれる側の気持ちも考えずに無茶苦茶に抱くに決まってる。
激しく腰を打ちつけ、相手を獣のように貪る。
駄目だという静止の言葉さえ聞かずに、何度も、何度も…。
そこまで考えて、サンジは自分の考えがわき道にそれていることに気がつき、慌てて頭を振るった。

(何考えてるんだ、俺は)

ブルブルと頭を振り続けるサンジを不審に思ったゾロが顔を上げた。
二人の視線が交差する。
サンジは動きを止めてじっとゾロに視線を向けた。

(ま、なんにせよ)

やらなきゃいけないのはただひとつ。

「おい」
「あ?」

レディをこの緑の獣から守ること。

「テメーを今日一日ラウンジに隔離する」

タバコを持った手を突き出しサンジがきっぱりと言い放つ。

「何で?」
「ナミさんとロビンちゃんを守るためだ」

異論は聞かねぇと強く言うサンジに、諦めたようにゾロが溜息を吐いた。

「わかった。好きにしろ」

ゾロがゆっくりと立ち上がる。
まずやらないといけないことは、ラウンジにいるクルーにこの事態を説明することだろう。
この特殊な事態をどう説明するか頭を悩ませながら、サンジとゾロはラウンジに足を踏み込んだ。